初心に帰って稲毛のことでもお話しましょう。
先ず僕の住んでる場所なのですが、小仲台というところで、駅から歩いて8分程度の場所にあります。そこには昔、平屋建ての家が2軒建っていました。その2軒とも父が経営していた会社の社宅だったんです。
父は戦後の闇市上がりで商売を始め、遠く福島まで夜行列車に乗って物資(主に食料品)を集め、東京で戸板に並べてそれらを売り捌いていたようです。
その頃はまだ稲毛の土地は持っていません。土地を買ったのは、僕が5歳の時ですから、今から65年前でした。その頃は既に闇市はやめており、店も会社組織にして、けっこう繁盛してたようです。その後、当時としてはけっこうオシャレな家を2軒建てました。そこには父の姉と息子(僕の9歳年上の従兄弟)隣の家は、父の弟家族が住み、さらにその後は、裏手にアパートまで建てていました。
父がやり手というより、母が買おうと決めたようですね。とはいえ、眼の前の道は今とは違ってなんもない汚い田舎道であったのを良く覚えてます。雨が少し降ると床上浸水したり・・・。
その後何十年が経って、叔母は息子が結婚するというので別の家に住むようになり、叔父も今、僕が毎日のように行ってる市原に引っ越しました。因みにどちらの家も父がかなりな額を補助していたはずです。父には頭が上がりません。
僕は、空き家になったその家に数年一人で住んでいたこともあります。僕が入ってる朝活(朝の清掃活動)の会では「歴史部会」というのもあるのですが、その中心の人が50年〜80年前の古い写真を探してるようなので、明日にでも従兄弟に聞いてみたいと思います。
さて、その後稲毛はみるみる発展しました。明治時代から海水浴で賑わっていた海側よりも改札の反対側、小仲台の方が、商業圏として発展目覚ましいようです。
話は外れますが、今日、市原から自転車で帰る途中、寒川という地名の場所を通りました。そこも江戸時代から続く千葉市の名所で、昔はあそこが千葉市の中心街でしたねえ。僕祖先のハラ戸籍というものをみると、祖父が子供の頃住んでいたのは寒川町であり、そのさらに何十年か先は、千葉県の木更津であったようです。噂に過ぎませんが、里見一族の子孫であったとも。
当時、千葉の県庁所在地を何処にするかは色々あったようですね。佐倉と木更津と千葉のどれか。そして、千葉に中心が来るというので、ご先祖さんは、多くの人と木更津から出てきたとも言われます。
ところが、ご覧のように今県庁の裏手にある寒川町は閑散としてます。何故かご存じですか?それは、【鉄道】の発達があったからなのです。当時千葉は海上輸送が主でした。寒川や検見川など、海に面した場所こそが繁栄の拠点と目されていたのです。もちろん稲毛は海水浴場がありますね。伊藤博文など、政治家や文学者河東碧梧桐なども足跡を残してます。ところが鉄道が主流となって、人の流れがまったく変わりました。
鉄道の発達が地政学的に180°町に変化を与えたわけです。海は1970年代から次々に埋め立てられ、かつての面影はまったくなくなりました。因みに、稲毛の浜は埋め立てられた浜を再現するために作られた人工の砂浜であると知ってましたか?日本一長いそうですよ。検見川幕張方面まであるようです。
長々と(だらだらと?)書いてしまいましたね。もっともっと色んなことも書きたかったけど、そろそろ帰ってこいと妻が言ってますんでここらへんで(笑)。では、曲は後ほど選んどきます。
【追記】
シカゴの代表曲ですね。ベースがなんともカッケー!ロックは70年代まで。80年代に入って「ロックは終わった」という人間の口です僕は。