バイアスが掛かるということ

正義を述べるというがどれが正義であるかというのは大変難しい場合があります。それには様々なバイアスが掛かってくるからです。バイアスという言葉を「偏見」と言うとちょっと違うような気もします。偏りに違いはないんだけど、どうしても起こってしまうクセみたいなものかな。

例えば、この前あったアカデミー賞の授賞式で、ウィル・スミスがコメディアンのことを平手打ちしました。あれがもし<黒人が黒人を殴った>のでなく、<黒人が白人を殴った>のであるとしたら、白人はどう見たか違ってくるでしょうね。評価が違ってきちゃうのです。白人が黒人を殴った場合も同じように違ってきます。黒人が黒人をというのでとってもクールな評価をする。

ところで、このバイアスって至る所にありますね。人種問題だけではありません。年齢、世代、地域、流派、出身校、美貌、ありとあらゆるところに評価の影響はでてきます。本人にそのつもりがなくてもバイアスが掛かってきます。今、ピアノのコンクールを題材にした小説「蜂蜜と遠雷」を読んでいるのですが、演奏の優劣をつける審査って、至る所にそのバイアスが影響してるような気も。

ホンモノを見極めるというのは文句なしに感動させることでしょう。そのバロメータは機械じゃできません。その人自身に備わってるものを100パーセント生かせる演技が高い点数を獲得するんだと思いますね。

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