My body, my choice.
上の言葉をみてすぐに中絶肯定派の言葉だと気づいた方は世相に鋭い。アメリカで世論を二分する大問題となっていることが先日テレビで報じられましたね。これは明らかにどちらの言い分も理解できるから難しいのです。
「私の体は私が決める」というのが上の英語の意味ですが、あなたのお腹にある命は貴女とは別の人格を有してこの世に宿っているのですよ、と反発しているのが中絶反対派の意見でしょう。
でも、レイプのように母の望まない形で生まれてくる子供でさえそう言えるでしょうか。一つの命の重みは判ります。でも僕自身はこの場合、やっぱり中絶は致し方ないと考えます。神ではなく、【人が】命の選択を決めることなのです。
では、障害を負って生まれてくるとわかっている場合はどうか。これも大問題ですよね。母はその子が愛おしい。けれど、その子が将来苦しむかもしれない。「私をなんで生んでしまったの?お母さん」、と恨まれたらなんて抗弁したらいいか。動物だって人間だって同じ。やっぱり生まてこない方がいいのかもしれません。これは冷たいのではなく、まさに愛であると僕なんか思うのです。
しかし、子供が欲しくないから中絶という言い訳は通用しません。そんな勝手なことをするなといいたい。それこそ生まれてくるべき子どもの人格を葬り去る行為でしょう。犯罪に値するといっても過言ではありません。また、生まれてきたからにはどんなことがあっても育て上げる。それは親としての当然の義務。これを怠ったら親になる資格はありません。自分はどうだったかって?そうですねえ。父親失格でしたねえ(笑)。
ともあれ、このような議論をするアメリカという国の民度の高さに脱帽してます。日本では議論の俎上にも上らない。新しい価値観が出て来てそれを議論することってとっても大切です。それこそ文化文明というものでしょう。科学だけではないのです。