神田白十字がなくなってもうすぐ3年

3年前だったと思うけど、神田白十字が長い歴史に終止符を打ちましたね。多分経営者は何度も変わっていたんだろうと思います。でも最後の数十年を切り盛りしていたのは僕の友達だったのです。

箱根駅伝の実況中継などで「右手には神田白十字が」と聞いたときなどは(おっ!)と思いました。その友達の家が千葉市葛城にあったのですが、そこの取り壊しが今年ありました。白十字をやめたこととなんか関係があるのかなと思いましたが、彼とも疎遠になっていたので連絡はとれません。さびしい気持ちがしました。

友達H君は小さいころからお金持ちでしたね。当時としてはとってもモダンな家に住んでおり、ビルの一室でした。立派な応接室でふかふかのソファ。階下では主にお母さんが経営する喫茶をやっていました。何しろ千葉の目抜き通りだったので、お客さんも多かったです。うちの母とも仲良しだったので、よく遊びに行きました。後に住んでいた一軒家が葛城になるわけです。

彼の家の目の前は当時千葉県で最難関高校であった県立千葉高校です。彼も僕も当然は入れません(笑)。こんなに近いのに入れないの?などと冗談交じりに話したことがありました。

その元のビルがあった場所なんですが、隣のビルが火事になって大騒ぎしたことがありました。死者が何人も出たんです。そして衝撃的な話を聞いてしまいました。それはあちらの母がうちの母に語っていたことです。火事は深夜でした。みんな酔っぱらって動けないわけですよ。それこそ阿鼻叫喚の地獄ってやつです。ものすごい形相で焼けてゆく。逃げ場もない。そして動こうにも動けない。助けようにも助けられない。ガラス越しに見てるだけだったと言います。最後は酸欠なのか焼け死んだのか、反り返って死んでゆくもの、丸まって死に絶えるもの様々であったといいます。

小さいころ聞いたその言葉が自分勝手に映像化されて脳裏に焼き付いてる!すさまじい記憶と想像力です。多分、ほんとにその映像どおりであったと思いますよ。なにしろ言葉の一語一語がリアルでしたから。そのお母さんも生きていれば90はとうに過ぎたことでしょう。お父さんが亡くなった時は白十字さんに行ったとき香典を持ってった記憶があります。今、彼はどうしてるだろうな。

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